手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ レビュー

『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』は、じつに奇妙な作品だ。書かれているテーマが独特すぎる。ビデオゲームというだけで、ほぼすべての文学者が「どうやら自分の専門じゃないな」とそっぽを向くのはわかりきっている。そのうえ、中学篇、高校篇にかけて、主人公は先述のシューターをプレイしつづける。それは「かつての日本には存在しなかったゲームデザイン」、つまり文学者どころか当時のゲーマーたちにとってさえ珍しい「一人称視点」の作品であり、さらに射程範囲は狭い。告白すると、書評子は最初の章の半ばあたりで、こんな小説があと300ページ以上も保つのだろうかと不安になってしまった。

ゼロ年代のeスポーツ以前のeスポーツをスポーツ文学ふうに描く試みではない

語りのペースは早い。小規模な日本人コミュニティ自体の黎明期から、主人公が日本代表チームに選抜されて世界戦に出場したのち、ゲーム自体の衰退が描かれるまでの五年間に、150ページとかからない。どうやら彼がはまっているゲームは、じつに競技性の高いものらしく、まったくルール(メタ)の変更がなく、昨今の競技性の高いゲームが抱えている本質的な問題をクリアしている。

また、実体験をもとにして書かれているらしいゲームプレイの描写は、真に迫ったものがある。そういうわけで、もしもこの作品が、「eスポーツ」という単語が生まれるより以前の「eスポーツ」をスポーツ文学ふうに描こうとしたものであったなら、この五年間だけで長篇の一本くらいにはまとまっていただろう。しかし作者は、いいところまで行ったとたん早々にこの一人称視点シューターのテーマを切り捨てて、つづく大学篇から、文学との浮気をはじめる。

手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ レビュー

このプロットは、主人公が十代のころ、著作権保有者の許諾なく違法にアップロードされた文化に触れてしまい、それによって「芸術というコンピュータ・ウイルス」に感染した、という逸話と繋がるものだろう。ただ、ここまでの展開があまりに駆け足すぎたためか、彼が文学に浮気するだけの説得力があまり感じられないのは、プロットのちょっとした欠損と言えるかもしれない。

そもそもゲームをプレイするのではなく、物語を語っているのはなぜ?

ただ、物語上必要な措置であったと言われれば、感動はないものの納得はできる。語りの構造としては、「私」という人物が、未来のどこかの時点から主人公の「私」という人物について語る、回想録の形式だ。こうなると、白熱するゲームの描写の裏側で、そもそもどうして語り手はいま、ゲームプレイではなく、小説を書くという行為を行っているのか、という疑問が湧いてくる。

手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ レビュー

そして物語の随所に、物語を語っている時点にいるらしい「私」の独白のようなものが差し挟まれているが、彼にしてみても「こうして語らなければならない理由」をうまく説明できないらしい。そういうわけで、この文学パートは、語り手がとにかくこうして語っていることの理由をあるていど補強するための支えとして用意されており、自転車の補助輪として機能してはいる。とはいえ補助輪にはちがいなく、可能な最高速度に到達するには邪魔なのだ。

宇宙空間への逃避?

そのことに気づいたのかどうか、作者はまたしても早々に、この文学的補助輪をおもいきり蹴飛ばして外す。この蹴りに力が入りすぎていることがわかるのは、その衝撃で自転車の速度に勢いがつくどころか、主人公が宇宙空間にまで飛び出してしまうからだ。この部分はなかなかの驚きをもたらす。どうやらこの宇宙空間は、またべつのゲーム、あまたの星系をまたにかける企業間戦争SF-MMOのようなのだが、ここまでくると、もはや現実と虚構の境目が混濁しはじめる。

手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ レビュー

さきほどまで宇宙艦隊を率いていたと思ったら、大学の課題ができていないと教授に怒られる。宇宙企業間の外交の席についたと思ったら、いつのまにか現実で勤めはじめていたらしい会社の会議で話し始める。この混濁した書き方は意図的なものだと思われ、内容というよりも形式、一行あきの文章のかたまりの置き方そのもので、主人公の精神状態を表すようだ。

この部分にも問題がないわけではない。なにせこの蹴飛ばしは、さきほどまで主人公とともに地球にいた読者までをも、いきなり宇宙船へと放り込むものなのだ。この宇宙で用いられる語彙の多くは、参考にされたゲーム自体から来ているもののようだが、初読の読者にはちんぷんかんぷんだし、じつは書評子にしても、何度読んでもわからない。インターネットを用いれば、実在する作品のWikiなどから情報を得ることはできるが、生きた知識としては入ってこないのだ。

それでも読み進めることができるのは、じつのところ本作が、語彙の理解をあまり要求していないからだろう。この作者は、ゲームシステムの妙味というよりも、そのシステムに向かって真剣に戦いをいどむ若者の、内的な感情の起伏と、外的な出来事の継起に焦点を絞っているのだ。

たとえばつぎの、システムにかんする説明の部分を読めば、語り手が、これ以上の説明は実際にゲームをプレイしてもらわないことには時間がかかりすぎるから、さっさと次のシーンに行こうじゃないか、と考えているような節が見えるだろう。

「このゲームのシステムは、ほとんど冷徹と言っていいほどの、数学的厳密さに貫かれている。ある射撃が敵に命中するかどうかは、サーバーのなかで演算される、撃った側と撃たれた側の種々のパラメーターの組み合わせによって決定される。計算に含められる数値は、多岐にわたる――有効射程範囲、威力減衰距離、敵影追尾能力、相対速度、角速度、攻撃属性、シグネチャ半径、シールド貫通精度、アーマー貫通精度、などなどだ。まあ、細かいところはあまりくどくどと話しても仕方がない。」

たしかに、あるひとつのゲームシステムの解説は、どれだけ上手く語られようとも、読者にとっては新しいルールをいちから学びなおす行為にすぎない。しかも、それによって読者が得られるものが、ゲームプレイの体験そのものではなく、たんなる概念でしかないとなれば、語り手がこうしてシステムの説明を省き、体験の描写に集中しようと考えたのもうなずける。

世界というゲームシステムとの対決

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とはいえ、良く言えば効率的な、悪く言えば面倒くさがりな語り手のこの性向が、作中の主人公の敗北と死に繋がっていると見るのは、ちょっと深読みのしすぎだろうか。ありていに言えば、もうちょっと真面目な人間であれば、勝てていたのではなかろうか? あるいは、どうにかして母親の死を防ぎ、それによってもう少しだけでも、正道の人生を歩めたのではなかろうか?

なんにせよ、主人公の敗北と死ののちにつづくシーンは、ダンテ『神曲』を彷彿とさせる冥界巡り、「上方の世界で目的を果たすことができなかったセーブ・データ」の吹き溜まりを描く。ここまでくると、現実と虚構、物理的身体とゲーム上の電子的身体が、ほとんどまぜこぜになる。そのために、どちらの世界の死も、私たちがふつうに想像するような、あの永遠の沈黙としては描かれない。そうではなくて、死は、まるで死を待つ人々が最後の時を過ごす監獄かなにかのように描かれる。

しかし、何度も打ち負かされ、死を経験し、冥界に降り立ってなお、主人公は世界への挑戦をやめようとしない――彼はまったく随意にコマンドを入力し続ける。そして、どうもこの精神性は、何万時間にもわたる彼の膨大なゲームプレイの経験から来ているようだ。

私たちは、あるゲームのうちで何度死のうともやりなおすことができる。私たちの現実の肉体は、いちど死を迎えればやりなおしはない。そして、一見するとまったく相反するもののように思われるこの二種類の死のなかに、どうやら作者は奇妙な共通項を見つけ出した。この点については実際に読んでいただきたいが、書評子が思いこしたのは、作中でも言及されるモーリス・ブランショが提唱した、あるひとりの人間は死を体験することができない、なぜなら死を体験する主体そのものが死の瞬間に死によって奪われてしまうから、という趣旨の言説だった。

手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ レビュー

本作の作者が某誌へのインタビューで語っている通り、「ゲームとは、システムの芸術である」。平明なゲームであっても、そこにはルールの束としてのシステムが存在する。すべてのゲームは、プレイヤーがそのシステムを学ぶことを要求する。つまりゲームプレイの快楽とは、数学的に洗練されたシステムに対する様々な入力を試していくことによって、そのシステム自体の構造や強度を測る楽しみにほかならない。

「測量」は試みられたが、上手く行ったのかどうか

様々なシステムにたいして本書のなかで延々と試みられた主人公の、いわば「測量行為」のレベルが上がり、強固になった視線がやがて私たちの現実世界のシステムへと向けられていくという流れは、至極当然であるとはいえ、驚くべきものだ。この部分は、ゲームという文化がこれから洗練されていった結果に起こりうる、未来の文化受容のありようを予兆しているようにすら見える。青年期には義務教育や大学教育といった形而下のシステムへぼんやりと向けられていた視線が、成年期に至って研ぎ澄まされ、そもそもこの世界の仕組みとはなんなのか、という高次の哲学的問題へと向けられていく過程は、まさに「ゲーム文学」がその青年期から成年期へと成長していく昨今の文学の状況と相まって、読者の感興をそそるものだろう。

そして終盤、作者が巧妙にも、物語の最序盤にカフカを持ち出している理由が明らかになってくる。名作『城』の主人公、田舎の城に雇われた測量士は、どうにかして測量をはじめようとするのだが、どれだけ歩きまわり、何百頁を費やそうとも、とうとう城にたどり着くことはできず、したがってなにひとつ測量できないままだった。

手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ レビュー

慧眼な読者はこれだけで、世界のシステムに対する批判的視点を、本書がどの程度まで突き詰めたのか、察することだろう。結果は明かさないでおくが、書評子としては、十四年間(解釈によっては十五年間)にわたるゲームプレイの体験、荒削りながら丹念な筆でもって四六版350ページほどに圧縮された体験そのものが、作家にとっての世界にたいするひとつの解釈、「こうして語らなければならない理由」、すなわち測量の理由であることは、間違いないところであろうと考える。

最後に、終盤部について。最終的には同一の存在となる主人公と語り手がわき目も振らずに生涯をかけて行っていたことは、いずれも世界にたいするコマンドの入力であり、その行為の消失点が最後の読点に集約されていることは確かだ。しかしブランショを持ち出すのであれば、小説の構造自体を、人間にとって有用な電球の構造に対比させるのではなく、自然による一方的な放電、人為によってコントロールされない「雷」のように、現れては消える鮮烈な文章そのもので語ってもよかったのではなかろうか。そうすることによってゲーム的な死と現実の死が虚無のむこうで重なりあい、本書が狙っていたポエジーがもっと強調されたのではないか――とはいえ、この考えはないものねだりの印象批評にすぎないから、ことさら強調すべきではない。