厳格なクリスチャンの家庭で育ったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)。彼には聖書の「汝、殺すなかれ」という教義が常に頭にあった。しかし、第二次世界大戦が激化し、友人も次々に出征する中で、自分も「衛生兵として国に尽くしたい」と思い、陸軍に志願する。それは、恋人である看護師のドロシー・シュッテ(テリーサ・パーマー)との別れでもあった。

体力には自身があったため、軍の訓練でも、戦場に見立てた泥道を這いずり回り、全速力で障害物によじ登るのも苦ではない。しかし、狙撃の訓練が始まった時、デズモンドは断固として銃に触れることを拒否する。そこで、上官からは人を殺せないのなら除隊しろと宣告される。その日から、上官と兵士たちの嫌がらせが始まるが、デズモンドの決意は揺るがなかった。やがて、軍法会議が開かれ、そこで意外な人物の尽力で、デズモンドの主張は認められることになる。

1945年5月、沖縄。デズモンドの所属する部隊は、「ハクソー・リッジ」(日本名は前田高地)と呼ばれる断崖を登り、そこで周到に準備していた日本兵の攻撃で苦戦を強いられていく。

戦争映画は、「ある斬新なポイントで戦争を描く」ということが常に求められてきたジャンルである。近年でいえば、「アメリカン・スナイパー」では、イラク戦争での狙撃の名手が帰還後もPTSDにさいなまれるところが斬新であった。それは、元々好戦的な主人公が、テキサスで暮らす中でも戦争体験が蘇り、平和な日常生活と戦場での生活が地続きになっていくアイロニーを描いたものである。

ハクソー・リッジ
アンドリュー・ガーフィールド演じるデズモンド・ドス

本作も例に漏れず、「宗教上の理由と愛国心から非暴力を貫く衛生兵に志願した主人公」という点が斬新である。その題材に説得力を持たせるよう、前半部と後半部とで、全く毛色の違う構成となっている。

メル・ギブソン監督映画にしばしば垣間見えるのが、聖書における<受難>である。

<受難>とは、大まかに言えば、イエスが宣教の旅の最後、エルサレムにたどり着いた際、そこで逮捕され、裁判にかけられ、拷問を受けた後、十字架に磔になり、刑死したまでの一連の苦難のことである。そのような作風になるのは、メル・ギブソン自身が敬虔なクリスチャンという理由がある。また、その<受難>の過酷さを際立させるための激しい暴力描写もトレードマークである。

アカデミー賞作品賞・監督賞を受賞した「ブレイブハート」では、13世紀末から14世紀初頭のスコットランド王国を舞台に、イングランド王国の支配下に置かれたスコットランド王国の独立戦争を題材にしている。それも<受難>を下敷きにした物語となっている。スコットランドの平民であったウィリアム・ウォレスは、イングランドの騎士によって妻を殺され、その復讐で襲撃し、撤退させる。そこから戦士としての人望を集め、イングランド王国に攻め込むまでの戦闘で、首をはねる、杭が人体を貫通するなどの描写が多く盛り込まれている。3作目の「パッション」こそ<受難>そのものの作品である。捕らえられたイエスが、ほぼ全身の皮膚がめくり上がるほど鞭で叩かれ、十字架に手や足首を鉄杭で磔にされたまま最期を迎える。4作目の「アポカリプト」は、狩猟民族の主人公がマヤ帝国の傭兵に捕らえられ、彼らから逃げつつ反撃をしながら村に残した妻子の元へ向かう話。主人公一人、猛獣も隠れたジャングルの中、素手のまま、武器を持った10人ほどの傭兵に追われる。

ハクソー・リッジ
メル・ギブソン監督

本作でも、戦闘の中で激しい暴力がひたすら続き、しばらくは開いた口がふさがらなかった。まず、聴覚的に、音響の凄まじさで、椅子から飛び上がりそうなことが何度もあった。予告編でも見られる海からの艦砲射撃、迫撃砲、手榴弾の爆発、銃撃、火炎放射などの音響。そのどれもが、リアリティを感じる鬼気迫るエフェクトであった。一方、視覚的には、迫撃砲をくらった直後には体がバラバラにながら吹っ飛び、銃撃に当たったら肉をめり込み血が大量に流れ、火炎放射を浴びたら肉が焦げるなど、そのどれもが残虐性に満ちていた。そのような音響や描写からは、今までに劇場で見た戦闘シーンとは比較にならないほどの臨場感があった。「プライベート・ライアン」の冒頭、オマハビーチでの戦闘シークエンスも超えている。

ただ、衛生兵の描き方には欠点があるように思えた。衛生兵の活躍も見物であるはずだが、そのディテールの描写に疑問が浮かぶ部分もあるからである。筆者は、第二次世界大戦時アメリカの衛生兵の詳細な役割には明るくはない。しかし、戦場で、デズモンド1人ひたすら負傷者の駆けつけ救護、あるいは救護した兵士を断崖に吊るしたロープに巻きつけて低地に下ろしていく描写ばかりなのは、首を傾げてしまう。例えば、他にも数人の衛生兵が戦場にはいるものの、彼らと連携して負傷した兵士を救護なども多分に考えられる。そうではない限り、上記のような激戦の中で75名助け出したというのは説得力に欠けてくる。

確かに、「過酷な戦闘の中で非暴力を貫く衛生兵デズモンド・ドス」に焦点を当てたとの見方も考えられる。しかし、通常の兵士の戦闘シーンと比較して、彼の登場するシーンは圧倒的に少ない。銃撃戦をかいくぐる、仲間に守られて手榴弾を避ける、手榴弾が落ちる前に蹴って爆発を避ける、その流れから救護する、といった流れに比重を置かれてもよかったはずである。戦闘の凄まじさ、両国の兵士の残虐さにばかり比重が置かれ、彼の活躍するシーンが圧倒的に少ないため、救出と戦闘が分断されているようにも見えてしまう。そうなると、「過酷な戦闘の中で非暴力を貫く」ということにも説得力が欠けてくる。

そのようなことから、<受難>を扱ったヒューマンドラマとして見ても、過去作と比較したら弱いと言える。「ブレイブハート」、「パッション」、「アポカリプト」のいずれにおいても、主人公は常に<受難>の中心にいて、残虐な暴力をかいくぐる、あるいは拷問を受け続けているのであるが。