「普通の子供向けファンタジーです」

「メアリと魔女の花」を見た感想を、知人にひと言で伝えるとすればそうなる。しかし本作が世に出る2017年の夏という状況は、それを許さないだろう。なぜなら本作は「普通の子供向け」以上の期待を背負わされている作品だからだ。

「メアリと魔女の花」はスタジオジブリで「借りぐらしのアリエッティ」「思い出のマーニー」を手掛けた米林宏昌監督が同スタジオの制作部門の休止にともない、同じくジブリで「かぐや姫の物語」「思い出のマーニー」を手掛けた西村義明プロデューサーとタッグを組み、新たな制作母体「スタジオポノック」で取り組んだ第1回長編アニメ映画。メアリー・スチュアートの児童文学「The Little Broomstick」を原作とし、禁断の花を巡る少女メアリの冒険を描く。声の出演は主人公のメアリに杉咲花、ピーター役に神木隆之介、ほか豪華俳優陣が多数参加。また主題歌をSEKAI NO OWARIが担当したことでも話題を読んでいる。

全体的に見渡せば良作だ

全体的に見渡せば良作だ。夏休みの家族向け大作としての要素は満たしており、冒頭のアクションをはじめダイナミックな見どころも備えている。著名俳優で固めたキャストも(大竹しのぶがやや大竹しのぶすぎるが)総じてまとまっている。個人的には「借りぐらしのアリエッティ」「君の名は。」とも違う声を絶妙に演じ分けたピーター役の神木隆之介と、コメディリリーフのフラナガンを楽しく演じている佐藤二朗の両名を推したい。

これだけの力作だが、やはり過去のスタジオジブリの名作群に比べると物足りなさは残る。公式サイトの「監督からのメッセージ」にもあるように、作り手側も意図して随所にジブリらしさを盛り込んでおり、飛行や食事シーンなど例を挙げればきりがない。

メアリと魔女の花

具体的な例を挙げる。

魔法学校へと続く、崖沿いの不安定な足場をメアリが渡るシーン。

「天空の城ラピュタ」であればパズーの大ジャンプでブロックがはるか下の海へ落ちていったり、あるいは「千と千尋の神隠し」では千尋が急階段をおそるおそる下りていったりといった場面を思い起こさせる。なお原作小説にこの場面はなく、意図的に足された部分だ。

ところが本作ではメアリが少し下は見るものの、彼女の視点で目がくらむカットもなく、足元の石ころが落ちていくわけでもなく、そのまま難なく渡ってしまう。結果、ジブリ特有の体感に訴えかけるシーンにはならず、魔法学校が雲の上にある立体的な設定も活きてこない。このようにどこかで見たシーンが、薄味な形で頻出する。名物描写でも必然性があったり、見る側の感情をゆさぶるものなら使う意味はあるが、本作にそこまでの必然性は感じられなかった。終盤でも前のめりになってほしいシーンでメアリは急いでくれない。

どこかで見たシーンが、薄味な形で頻出する

前出の部分が宮崎駿作品と比較して足りない点とすれば、高畑勲作品と比較して足りない部分もある。それは世界観の見せ方だ。原作出版当時(1971年)の古き良きイギリスの田舎が舞台かと思いきや、冒頭から真新しい白い引っ越しダンボールが出てくる。白い引っ越しダンボールの普及年代は不勉強にして知らないが、少なくともクラシックな印象は受けない。ほかにもカラフルな懐中電灯や「ゲーム機」というセリフが出てくるので、最近なのかと思えばピーターの自転車は妙に古かったり、テレビは4:3だったりと「いつ、どこの話なのか」が大雑把だ。もちろん致命的な欠点ではないが、そこに徹底的にこだわった「かぐや姫の物語」と同じプロデューサーの作品とは思えない。緻密な世界観という魅力は薄く、わざわざ出す必要のない小道具で不要な混乱を招いている。

メアリと魔女の花

ジブリ以外に本作から連想されるのは「ハリー・ポッター」シリーズだ。「魔女、ふたたび。」というキャッチコピーは「魔女の宅急便」を思い起こさせるが、見てみると「魔女の宅急便」と共通するのは「ほうきで空を飛ぶ」「猫がキーキャラクター」といった程度で、実際には不思議な登場人物や魔法学校など「ハリー・ポッター」的な要素が多く見られる。はっきり言えば本作はジブリ+「ハリー・ポッター」だ。もっとも原作小説は1971年発表なので「ハリー・ポッター」より先だが「魔法学校を舞台としたイギリスの女性作家による児童向けファンタジー」という枠組みだけでも、共通要素がいかに多いかがわかる。本作の魔法学校は遊園地的な見せ方だが「ハリー・ポッター」のホグワーツほどの歴史を重ねた凄みや実在感は出せていない。

本作は何かと比べず鑑賞することが難しいポジションにある

また魔女や魔法学校というモチーフで言えば、映画ではなくテレビアニメだが、斬新な描写やキレのいいアクション、魅力的なキャラクターを盛り込んだ「リトルウィッチアカデミア」がアニメファンの支持を獲得したのも記憶に新しい。

このように本作は何かと比べず鑑賞することが難しいポジションにある。宣伝も「ジブリじゃないですから」ではなく「ジブリで長年やってきましたから」という売り出し方だからなおさらだ。ジブリアニメも「ハリー・ポッター」も知らずに、まっさらな気持ちで楽しめるのは小さな子供でもない限り、現実的には少数派だろう。そしてIGNの読者とライターは小さな子供ではない。

贅沢な悩みだが、ジブリ作品が国民的アニメとして約30年間親しまれ、日本人全体の長編アニメ映画に対する鑑賞眼と、期待するハードルは2017年において相当なレベルまで高まっている。そうした状況で盛り込まれた「ジブリあるある」は、素直に喜べる人には嬉しい点だが、そうでない人にはマイナスに映るだろう。入り口は子供向けでも大人も感動させ、アニメは子供のものという偏見を打破してきたのがジブリ作品だったが、本作はジブリファンほど純粋に楽しめない皮肉な結果を生んでいる。むしろ逆にジブリにはなかった動物の大脱走シーンのほうに新鮮な魅力を感じることができた。

2013年の宮﨑駿監督の「風立ちぬ」、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」からすでに4年が経った。

日本人全体の長編アニメ映画に対する鑑賞眼と、期待するハードルは2017年において相当なレベルまで高まっている

2016年にはアニメ史に大きな足跡を残す作品、「君の名は。」と「この世界の片隅に」が高い評価と興行的成功を獲得した。「君の名は。」は安藤雅司氏、「この世界の片隅に」は片渕須直監督と、どちらもジブリ在籍経験があるスタッフが中核となった作品だ(なお安藤氏は本作にも原画で参加)。宮崎駿、高畑勲の次の世代の長編アニメ映画はかなり以前から様々な形で模索され、そしてすでに花開いている。スタジオポノックがジブリスタッフの受け皿として人材や技術の継承を行う意義はもちろん大きいが、そこに集ったスタッフだけがジブリの嫡子なのではなく、最後に残った末っ子と例えるほうが実像に近いように思う。

そんななか、引退を宣言した宮﨑駿監督までもが再度長編アニメ映画を作ると発表。再度スタッフの募集をかけ、本家ジブリが予期せぬ延長戦に向けて動き始めた。

メアリと魔女の花

ここまで来ると「メアリと魔女の花」は不運というより、勝負をするタイミングが悪すぎる。目先の流行には流されず、勝負するなら得意技で、自分たちが作れるベストなものを、という姿勢はすばらしいが、ジブリの後継者というポジションでハードルが上げられ、多すぎる比較対象と嫌でも比べられる本作は、大作アニメのプロジェクトとしてはあまりにも不器用に見える。作品の各要素は高い水準だけに余計そう思う。

奇策を取るべきだったと言いたいのではない。現に米林監督&西村プロデューサーによる前作「思い出のマーニー」はジブリ的なお約束は極力抑えながらも、内向的な少女の繊細な気持ちの揺れを見事に描いており、宮﨑駿とも高畑勲とも違う、独自の魅力を放つ作品に仕上げていた。米林作品としては「借りぐらしのアリエッティ」の興行収入が92.5億円、続く「思い出のマーニー」が35.3億円と推移したため「夏休み映画らしい派手なものを」「ジブリファンにアピールするものを」という興行上の要請があったのかもしれないが、米林監督の作家性は、動的な本作よりも静的な「思い出のマーニー」において発揮されていると感じる。

後半の展開は原作から大きく改変され「大きすぎる力を人類は扱えるのか?」という問題提起がなされるが、メアリ自身の動機とは噛み合わず、彼女はあくまで普通の女の子の範囲で行動し、宮﨑作品的な輝きを見せることも、高畑作品的な内面の葛藤を見せることもなかった。結果的には老若男女に世代を超えて愛される「普通以上」を目指せるポテンシャルを随所に潜ませながらも、インパクトやオリジナリティが薄味な作品に収まっている。

禁じられた魔女の花を使い、一時的に魔法を使えるようになるが、やがてメアリは魔法に頼らないことを選択する。本作以上に大変な道のりになっても、スタジオポノックが自分たちならではの、ジブリの魔法に代わる何かを今後編み出すことに期待したい。

そうしたわけで「メアリと魔女の花」は普通の子供向けファンタジーである。