長寿TVシリーズとしての「ウォーキング・デッド」の長さ、そして「一つの長い戦争」というシーズン8(少なくとも前半)の性質を考えると、マンネリ化は容易に予測できる。毎週同じようなことが繰り返され、番組が停滞気味であると感じたとき、人は物語に活を入れるような「いつもと違うもの」、つまり何か“通常”から逸脱したものを求める。そして今週の「懺悔(原題:The Big Scary U)」では、視聴者は確かにそういうものを見つけられた。一方、私たちが大して関心を持たないキャラクターに焦点を置きすぎて彼らに尺を割きすぎたのもまた、このエピソードの否定しようのない欠点である。

グレゴリー、サイモン、レジーナ、そしてサンクチュアリー内の対立……これら全てがつまらないものだ。もちろん、ドワイトがリック側のスパイだと見破られる可能性もあるだろう。しかし、クロスボウでデニースを殺した彼は私たちの「心配」に値する男なのだろうか? あるいは、誰が見ても真っ先に疑われそうなユージーンがドワイトの代わりに疑惑の目を向けられるのは、そんなに重要なことなのだろうか? こういったサンクチュアリー内の少しだけ張り詰めたシーンは、視聴者の立場からすると必要なものではないだろう。たとえ番組がこの戦争における“衝突”のもう一つの側面を見せるためにこれらの場面――そしてリックとダリル間の内輪揉め――を用意したとしても、あまり有意義な段取りとは思えない。

しかし、第4話「王への忠誠」でエゼキエルのプライドの崩壊が描かれたように、「懺悔」で私たちはかつて描写されたことのない、あるキャラクターの意外な一面を見ることになる。すなわち、少し“ソフト”になったニーガンのことだ。もちろん、ゲイブリエルもこれまで最大の見せ場を得たが、そもそも彼には“見せ場”と呼べるシーンがなかったので、“最大”の見せ場という言葉には語弊があるのかもしれない。そして、「ウォーキング・デッド」のいつものパターンとして、中心的なキャスト以外のキャラクターが見せ場を得て、視聴者がやっと彼らに対して理解を深められるということは、彼らの死が近いことを意味する。ボブがウォーカーに噛まれる前に突然スポットライトを浴び、デニースが自分の過去を語った直後に殺されたように、ゲイブリエルも重要キャラクターであるニーガンと2人でいる機会をゲットして衆目を集めた後、逃走の途中で(おそらく)ウォーカーに噛まれてしまった。言葉通り、太陽に当たる場所に出た途端、死に体になったのである。これは「ウォーキング・デッド」のいつもの“方程式”に過ぎないので、意外性に欠けると言わざるを得ない。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「懺悔」 レビュー
彼が何より大事にしている「意味のある死」を遂げるために、ゲイブリエルの正式な退場は来週になるのかもしれないが、いずれにしてもこのキャラクターの薄っぺらさを挽回できるものではない。初登場以降、ゲイブリエルはずっと教会から人々を締め出した臆病な行動に一意的に定義されており、その死においてもなおその行動が主な命題となっている。今、彼の目的は、ただ有意義な犠牲によってこの世を去ることだ。一つの大きな過ちによって登場から最期まで規定されるというのは、実に平坦な展開だ。敬虔な宗教家として、このような無味乾燥な扱いを受けるのは、番組制作者の“手抜き”と言うほかない。マギーについても似たところはあるが、彼女には他にも様々な側面があり、ゲイブリエルのようにずっと一つの十字架を背負っているわけではない。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「懺悔」 レビュー

「懺悔」で最も輝いているのは、間違いなくこれまでと全く違う一面を見せたニーガンだ。彼は相変わらず汚く卑猥な言葉遣いをして、自惚れた尊大な性格も時々顔を出しているが、私たちが初めて見た“ニーガン”は確かにそこにいた。まずは「キレるニーガン」。不安定な心の状態を覗かせたニーガンだ。しかし同時に、ニーガンは「不要な殺しはしない」という行動の原則をしっかり貫いている。彼はあいかわらず「人は資源だ」と話す。これは確かに“あの”ニーガンである。

そしてもっと重要なのは、私たちはちょっとだけ低姿勢の“控え目”なニーガンを見た。彼はいつもの高慢さを抑制し、自分が苦境に立たされていることを認め、論理的になってゲイブリエルの前でほんの少し傷付きやすい自分をさらけ出した。ニーガンは半分詐欺師のような人間だが、半分は堅実なサバイバリストだったのだ。ゲイブリエルは、ニーガンが守りを少し緩める機会を作ったという意味に限っては、素晴らしい活躍をしている。もちろん、視聴者はニーガンの言葉や態度を疑わずに受け入れるわけにはいけないが――ニーガンはコンスタントに他者を分析し、裸の自分を回避する卓越した技術の持ち主だからだ。とはいえ、彼が纏っている無形のよろいと乱暴な言葉遣いという濃い霧の向こうには、確かにいつもと違うニーガンが見えた。彼は、より深いレベルで、他の誰か“と”――“に”ではなく――話をしている。それがただの演技とか、全くの嘘とは考え難い。

 

ゲイブリエルに懺悔を促される形で、私たちはニーガンの最低限のバックグラウンドを聞くことができた。原作コミックでは最近、ニーガンの過去が掘り下げられているが、TVドラマの視聴者は彼が昔、子供に関わる仕事(学校の仕事?)をしていたこと、そして病気になって死んだ妻のことを知った。このポストアポカリプスの世界に適応するために、人々がそれぞれ異なる(そして命に関わる)アプローチを採っているが、ニーガンが個人的悲劇という教訓から学んだのは、厳しい選択においても躊躇しないこと、そして二度と情に流され、感傷に耽らないことだった。これは必ずしも彼が完全に「サイコ」な人間になったことを意味するものではないが、今のニーガンを形作る大事な要素であることは間違いない。サバイバルのために、自分の奥底にある感情を遮断して、「こころ」を守る。これはキャロルやダリル、モーガンにも共通する姿勢だ――特にモーガンはこれを貫き通すために、半ば狂人のようになっている。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「懺悔」 レビュー

ニーガン不在のサンクチュアリーでは、人々がリーダーの死を恐れ、工場の壁の内側で組織が崩壊しかけていた。これはニーガンが話したことを証明している――彼こそ、皆を動物としての醜い本能から遠ざけて人々を「助ける」唯一の存在なのだ。一方、同じ時間にリックが何をしているかと言うと、作戦計画を根本的に変えて罪のない人々を巻き込んで爆弾をぶっ放すと言って譲らないダリルの「反逆」に対処していた。今シーズンでダリルは自身を自責の念から完全に解放して、救世主側の全ての人間を根絶やしにしても良心が痛まないようになっている。今までこんなダリルの毅然とした戦い方は観ていて気持ち良かったが、今週のリックとの戦いは空しく感じられた。ほんのちょっと前に、私たちはリックのチームにいる他の二人が同じようなことで対立し、ゼロ和の喧嘩に発展したのを見たばかりだからだ。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「懺悔」 レビュー

 

リックとダリルの内輪揉めは、もっと意味のある重要な出来事として描けるはずだった。しかし、二人の重要キャラクターの対立は結局、また作戦から脱線しようとする「もう1人」ということで終わっている。なぜ明確な指示もなく自分の任務から離れようとする人間が続出しているのだろうか? まず、ジーザスは全ての仲間を危険に晒してまで、10人以上の救世主たちの命を助けようとした(ちなみにジーザスは一人でヒルトップに留まって、24時間365日で捕虜たちを保護・監視するべきだ)。そして今、ダリルは逆に悪漢になって誰もかもを爆弾で殺そうとしている。ジーザス対モーガンの内輪揉めを見せた後、さらにこのリック対ダリルの衝突を見せるのは、大した意味やインパクトがない。これは同じテーマをめぐる対立の繰り返しに過ぎない。しかも最後にリックとダリルの戦いは言葉通り、何の結果ももたらさなかった――リックが爆弾の入ったカバンを車へ投げて、車がドカーンと爆発したこと以外は。荒々しい衝突の末、二人はただ呆然と炎上している車を見つめるのであった。