7つのシーズンが過ぎて、「ウォーキング・デッド」が新しいことに挑戦するのも当然だろう。同じようなことが繰り返されるこのTVドラマにとって、新鮮味を保つために何らかの“変更”が必要だ。しかし、シーズン8ではその変更がテーマやストーリーではなく番組の構造に表れている。複数のエピソードにわたってひとつの襲撃計画を見せるのは新たな視聴体験をもたらすが(ちなみにこの襲撃はミッドシーズンフィナーレまでずっと続くのだろうか?)、肝心の展開の遅さは変わっておらず、この意味では使い古した芸の繰り返しのように感じてしまう。形式やビジュアルを一新しても、本質が以前と同じなのだ。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「予期せぬ再会」 レビュー

「ウォーキング・デッド」シーズン8「予期せぬ再会」 レビュー

 

しかし第2話「予期せぬ再会(原題:The Damned)」には評価すべきところもある。エピソードの最後にあるモラレスの登場は素晴らしい。「予期せぬ再会」の一番の良さは、原作コミックから“脱線”して独自の物語を見せるところにある。違いはあれど、第1話「全面戦争」の展開はコミックから大きく逸れていなかった(こちらの比較を見ると、シーズン7最終話のサシャのプロットもコミック版の要素を引き継いでいることが分かる)。しかし、モラレスの再登場は目を見張るような、完全に予想外の展開で、シーズン1への合理的なオマージュにもなっている。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「予期せぬ再会」 レビュー

 

モラレスと彼の家族(誰が生きていて、誰が死んだのか、我々はまだ知らない)は興味深い変則的要素だ。彼らはシーズン1第5話「救いを求めて(原題:Wildfire)」でこの番組を離れたが、退場の理由は多くのアトランタの生存者たちと違って「死」ではなかった。モラレス一家は疾病対策センター (CDC)へ向かうリックたちに別れを告げ、自発的に採石場に残ったのだ。もちろん、ウォーカーが蔓延るポストアポカリプスの世界で彼らがとっくに死んでいたとしても不思議ではないが、初期の主要キャストとして後に一度も登場しなかったのはやはりおかしかった。ロビン・ロード・テイラーが演じるサムを思い出してみよう。終着駅で彼が殺されるシーンのためだけに、サムは一瞬だけ再登場したのだ。サムは消息を絶った後も、視聴者の心に残っていたキャラクターだったからだ。「ウォーキング・デッド」の制作陣はクリエイティブな意味で正確な記憶を持っていることは間違いない。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「予期せぬ再会」 レビュー

モラレスが生存しているだけでなく、救世主の一員になっているとリックが発覚したというアイデアは、エピソードのエンディングとして非常にクールだ。所々に挿入されている、数々の混乱やサイドクエストの最中に登場人物たちの顔のクローズアップがなくてもかまわないが、モラレスのシーンは本当に見事としか言いようがない。モラレスは、自分のボスに戦争を仕掛ける「リック」が何年も前に知り合った“あの”リックだと知っていたのだろうか? もしかして妻や子供を失った結果、絶望の中で魂を悪魔に売って救世主に参加したのだろうか? シーズン1でのモラレスはまともな「ヒーロー」タイプの人だった。ストーリーの主軸である4つの戦線での戦いが進行している最中、この物語の横糸は非常に面白く感じた。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「予期せぬ再会」 レビュー

4つの戦線は、要するにこんな感じである。一つ目、リックとダリルはドワイトのメモに従い、銃器が保管されているというオフィスビルへ潜入して銃を探す。二つ目、アーロンは銃撃隊を率いて、ある救世主の基地の外周を囲みながらも中へ侵攻せず、殺した救世主たちがウォーカーとなって蘇ることを狙って生きている救世主たちを片付けてもらう。三つ目、キャロルとエゼキエル(そして虎のシヴァ!)は逃走する敵の見張りを追跡して殺す(二人のやり取りが面白く、笑い合うシーンも素敵だった)。四つ目、ジーザスとタラ、モーガンからなる寄せ集めのチームは救世主のある基地に大攻撃――最初は静かだったが、後に非常に騒々しく血生臭くなった――を仕掛ける。

 

タラとジーザスによる襲撃は、このエピソードで一番ややこしいパートだ。その部分に入る前にひとつ言いたいのは、一人で敵を殺しまくるモーガンが素晴らしいということだ。この番組の第1話から、モーガンはずっと原始的なAIのようだった――ディストピアの世界で色々なことを教えられてきて、そして今は“故障”している。「殺すべきだ」「全員を殺すべき」「誰も殺すな」「本当に必要なときだけ殺せ」……モーガンは大人に生き方を教わる“赤ん坊”のようで、“両親”(リックとイーストマン)の互いに矛盾する言葉がその脳内で響き合う結果、狂人のようになってしまった。「自分の生き方くらい自分で決めなさい」と考える視聴者もいるだろうが、モーガンにはその能力がないようだ。

もし彼が自分の生き方を決めることができていたら、今の“サイコ・ターミネーター”とでも言うべきモーガンの殺戮ショーを見ることができなくなってしまう。まるでマシンのように敵を殺していくのは、見ていて気持ち良かった――特に、ジーザスが多くの救世主の命を助けようとするときにおいては。私は本当にモーガンに出てきて、自惚れたジーザスが見ている前で降伏した救世主たちを皆殺しにしてほしかった。残念なことに、ジーザスの独り善がりの考えがモーガンの脳に入り、赤ん坊同然のモーガンの更なる虐殺を止めてしまった。

そしてジーザスとタラの話だ。なぜジーザスはこの戦争の最中に慈悲を見せようとするのか? 救世主を殲滅することを目的とする、綿密に計画された作戦の中で、敵の命を助けるという判断は問題ないと彼が考えた理由は何なのだろうか? 彼の行動は、明らかに誰かの指示に従っているものではない。敵の命を助けるというのはジーザスの独断によるものだろう。そしてこれがつまらないのだ。このエピソードの最悪な部分は、ジーザスと敵を殺そうとするタラが衝突するシーンだ。第1話の原題「Mercy(慈悲)」が暗示するように、おそらくシーズン8の前半でリックは何か重大な決断をすることになるだろう。しかしここで「殺すか生かすか」という古い問題にフォーカスするメリットは何ひとつない。絶対に負けられないこの戦い、勝利しか許されない熾烈なる戦争の中で、なぜジーザスは敵の命を助けることに固執するのか? これは非常にリスキーで危険な決断にも関わらず、だ。

 

そして実際、ジーザスが生かそうとする救世主が卑怯な嘘つきで、ジーザス自身とタラは危うく殺されるところだった。自分の判断は全く場違いなものだったのに、危ない目に遭ってもなお敵を許そうとする彼は、いったい何を考えているのか? 自分が救世主たちを皆殺しにしようとする仲間たち――特にモーガンとタラ――と一緒に戦っているという意識はあるのだろうか? もちろん、我々はジーザスというキャラクターを非難できるが、本当に批判すべきなのはむしろ、かったるいだけで無意味な仲間同士の衝突をこの時、この場所に投下した「ウォーキング・デッド」の制作陣なのではないだろうか? 進行中の緊迫した戦争にこういった陳腐なシーンを挿入するのは、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。

「予期せぬ再会」は「全面戦争」よりまとまっているが、このような断片は全体的なクオリティに悪影響を及ぼしている。最後のモラレスとの再会シーンがこのエピソードに驚きを加味したものの、重大な戦いにおいて敵を殺さないという“ジーザス問題”は「ウォーキング・デッド」が単調なリズムを繰り返す祭太鼓のような番組であることを思い起こさせる。