このゲームのどこが面白いの?

「それはもう、ドラクエだから」

でもここ、微妙じゃない?

「まあ、ドラクエだから」

僕は長年のドラクエファンとして、上のようなくだりを問題視している。なぜなら庇うときでも褒めるときでも、それは逃げの姿勢だからだ。「ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて」PS4版をレビューするにあたり、「ドラクエだから」という論点から語るのを完全に避けたい。そうすればドラクエの本質が見えてくる、そのような気がする。

ドラゴンクエストXI

蒸し暑い夏。蝉しぐれに耳を澄まして、友達とみずみずしい緑の公園を散歩していた。僕は睡眠時間を削ってあくる日もあくる日もドラクエで勇者をしていた。たった1週間で100時間以上プレイして、この散歩がちょっとした息抜きになっているはずだった。でもダメだった。友達の話に相槌を打ちながら、僕はこのようなことを考えていた。ふしぎな鍛冶でほのおのツメをうちなおしてマルティナに装備させよう、グロッタの町の近くでエビルドライブに乗ってあの高台を登っていける足跡がないか探してみよう、主人公のスキルパネルはやはり「勇者」スキルを優先させよう、等などだ。ほとんど監禁状態で吐きそうになってもおかしくないくらいプレイしているのに、早くまたその世界に戻りたくて友達の話を聞いている余裕すらない。「DQXI」はそんな夢中になれるゲームだ。

オープンワールドではない、ストーリーのためにデザインされた世界

様々な地形の広大なフィールドが広がり、馬や船に乗ってその世界を駆け巡る。戦闘や町の探索はもちろん、宝物探しからサブクエストまで、寄り道も充実した壮大な冒険が待っている。だが、間違いないでほしい。これはいわゆるオープンワールドではない。冒険の舞台であるロトゼタシアは、国産RPG独特の世界づくりを正当に進化させたもので、海外のオープンワールドゲームとは一線を画す思想に基づいて設計されている。

では、どのように違うか? 一言で説明すればオープンワールドはプレイヤーの自由を最重視して作られているのに対して、ロトゼタシアはストーリーを届けるためにある。ストーリーには順番というものがあり、自由度が高ければ高いほどプレイヤーを順路に沿って進ませることが難しくなってしまう。つまり、「DQXI」は概ねに一本道のゲームだ。一本道といえば聞こえは悪いけど、それも思ってみればおかしな話しだ。少なくとも、僕は一本道でよかったと思っている。

ドラゴンクエストXI

順路があることによって、ロトゼタシアは極めてデザインされた世界に仕上がっている。冒険しているエリアのマップを見れば、行ける場所と行けない場所はすぐにわかる。飛び降りできない崖、中に入れない海や湖、そして場合によってはまだ景色が続いているのに見えない壁にぶち当たることも。途中で枝分かれはするが、ほとんどのエリアは廊下型のマップになっている。だが、制限されているからこそしっかりしたレベルデザインが施されている。例えば、明らかに行き止まりになっているようなポイントにあえて行ってみるとほとんどの場合、プレイヤーは宝箱や貴重な素材で報われるように作られている。

レベルデザインに大きく貢献しているといえるのはモンスターの乗り物だ。パールモービルで高台に飛び移り、ビーライダーで湖を超え、ドラゴンに乗って洞窟の上層部へ一気に飛んで進む。オープンワールドの乗り物とは違い、これらは単純に目的地へ早くたどり着くための手段ではなく、パズルの一部となっている。様々なモンスターに乗ってマップを隅から隅まで調べ尽くせば、ロトゼタシアの世界がいかに隠れた秘密でいっぱいなのかがわかるだろう。

ドラゴンクエストXI

見事にデザインされたマップとそうでないマップとの差が激しいのはちょっと残念だ。ゲームの中盤で訪れる渓谷地帯「怪鳥の幽谷」では複数のモンスターに乗り換え、ロープから高台に昇ったり、狭い足場の崖をつたって進んだりと本当に刺激的である。一方、ほとんどまっすぐに進んで途中でモンスターと戦うだだけのマップもある。幸い、そういったマップでもロトゼタシアの大自然の美しさは変わらない。

お伽噺の世界を自分の足で歩いているような気分にさせてくれる。

新しい地域を訪れる度に思わず息を呑んだ。地形が異なるのはもちろん、そこに生息するモンスターも違う。壮麗な滝の絶景からサボテンに不思議な形の岩がある砂丘まで、ロトゼタシアの自然が見飽きることはそうそうない。昨今のPS4ゲームとしては平均的なグラフィックスなのかもしれないが、ここまで不思議に満ちた世界はちょっとない。お伽噺の世界を自分の足で歩いているような気分にさせてくれる。

ロトゼタシアの世界を完成させるのはモンスターたちだ。「DQXI」はモンスターが実際にフィールドに出現するいわゆるシンボルエンカウントを採用しているが、ドラクエファンはモンスターたちが生き生きとフィールドをピョンピョンと飛び回る様を見るだけで満足するだろう。だが、ドラクエに特にこれといった思い入れがない人にとっても、400種類近いモンスターが生息するロトゼタシアは魅力的だろう。ずらりと並んだ樹木の間にひっそりと佇むきりかぶおばけ、木からぶら下がって昼寝するドラキー、遺跡の上にたむろするおおがらす。各タイプのモンスターには多くのモーションが用意され、モンスターは周囲とインタラクションをとり、他のモンスターと群れをなす。架空の生態系が確立されていると言っても良い。

ドラゴンクエストXI

渓谷地帯に位置する主人公の故郷、イシの村から大きな港町のダーハルーネまで、村や町で人間の日常を垣間見ることもできる。町の大きさは昨今のスタンダードからすればさほど大きくはないが、どれも特徴がはっきりしているし、数も多い。屋根に登ったり、ロープをつたって綱渡りしたりと、一部の街は探索の幅も広がっている。

ドラゴンクエストXI
村人のつぶやきこそが、ドラクエの心。

だが、村や町の一番の魅力は映像美でも探索でもなく、ツボを壊すことでもない。村人のつぶやきこそが、ドラクエの心だ。NPCの数が過去作よりはるかに多くなっても、全員に話しかけることができる。ちょっと笑えないオヤジギャグをこぼす老人から秘密を打ち明けてくれる主婦まで、思わずほっこりするテキストはじっくりと味わう価値のあるものだ。シリーズの生みの親である堀井雄二がすべてのテキストを担当しているわけではないはずだが、どの台詞からも堀井雄二らしいセンスと世界観がにじみ出ている。

物語を進めて町の状況が変わると、ほとんどの場合はテキストも一新される。1人の村人にあたり少なくとも3、4パターンの台詞はあると思うが、まったく手抜きがなく、ダジャレや滑稽な発言はとどまるところを知らず、人間味にあふれている。メインストーリー以外の部分だけでも想像を絶するほど長い脚本になっているに違いない。

ドラゴンクエストXI

とにかく冒険の舞台であるロトゼタシアは魅力にあふれている。だが、改善の余地もないわけではない。絶景は多いけれど、ひとつ前の世代を思わせる場所もある。例えば、ロトゼタシアは滝が多くて、どれも息を呑むほど美しいが、一方で海の表現は少し荒い。水面の質感にはリアリティが欠け、波の表現に大きな変化もなければ太陽の光の反射もあまり感じられない。同じ水の表現なのにどうしてここまで違うのだろう? それから、今回は東洋風の町が非常に多く、欲を言えばもう少しバリエーションに期待したかった。でもまあ、考えてみるとどれもささやかな問題だ。

だが、船のワールドマップにある問題はささやかなものではない。物語の途中で船を手に入れて世界を航海できるようになるのはいつものドラクエと同じだが、今回は大陸で満喫した「等身大のドラクエ」を大海原でも楽しめるのかと思いきや、船に乗る時は見下ろし視点になり、まったく別のグラフィックのワールドマップが採用されている。「ドラゴンクエストビルダーズ」と「勇者のくせになまいきだ。」の間をとったようなシンプルなローポリゴンで、ロトゼタシアの壮大さを感じさせない。しかも、船に乗っているときだけフィールドは移動しながらロードしていき、航海しながら木や岩が急に出現したり消えたりする。シンボルエンカウントもないのでモンスターが海で生活する様も見られず、このワールドマップだけは時間が止まってしまっているかのようだ。2017年において「ドラクエだからこれでいい」とさすがに譲ってあげられない。

ドラゴンクエストXI

ボイス付き台詞がないことも、一部の人は問題として指摘している。だが、そもそもドラクエは映画のような演出を目指していない。堀井雄二のストーリーとゲームデザインと鳥山明のキャラクターデザインに加え、すぎやまこういちの神々しいBGMと効果音がドラクエならではのストーリーテリングを完成させている。物静かな効果音で大事なテキストを読むとき、それはまるで小説のように心の奥に響くのだ。

物静かな効果音で大事なテキストを読むとき、なぜか心の奥に響く。

「DQXI」は新曲だけでなく、過去作の名曲もたくさん収録されている。新曲は一部気に入ったものもあるが、今後ドラクエを代表するような曲は少なかったように思う。いつもならゲームの途中からどれが新曲かでどれがそうでないかわからなくなるが、今回はそこまで染まらなかった。フィールドの曲も決して悪い曲ではないが、あまりにエネルギッシュであるためロトゼタシアの不思議な世界観との相性が良いとは言えない。

今作のサブタイトルが「過ぎ去りし時を求めて」であるだけに、過去作へのオマージュがふんだんに盛り込まれている。昔のぱふぱふが全部入っている「ぱふぱふの集大成」から競争する防具屋まで、シリーズを長年プレイしている人なら記憶にあるようなシーンも多いが、微妙にチューニングされている。

ドラゴンクエストXI

僕はシリーズのファンだが、実を言うとこれらのオマージュに対して完全に肯定的な考えではない。なぜならそれぞれのタイトルに孤立した存在であってほしいからだ。「DQXI」には今作だけの特別な何かを求めたい。幸い、オマージュが豊富でも、「DQXI」のストーリーは過去にすがりつくことなく、ちゃんと自分らしいものになっている。

序盤からクリア後まで引き込まれる物語

ストーリーの最初の10時間はとにかく刺激的だ。リアルタイムで進行する逃亡シークエンスやステルスする場面といったこれまでのドラクエになかったような演出も採用され、スリリングな序盤がプレイヤーを引き込む。もちろん、仲間と会話するシステムや戦闘を通して見えてくるキャラクターたちの個性といったドラクエならではのストーリーテリングも健在だ。主人公の波乱の人生が描かれる大河ドラマのようなストーリーは「DQV」を想起させるので、哀しい気分に包まれる出来事にも、予測しなかった急展開にも期待してほしい。

中盤からは仲間キャラクターやNPCについてのエピソードも増えていく。だが、思わぬところで主人公の過去が明らかになったり、物語の流れが大きく変わったりするので油断はできない。「DQXI」は小説に例えるなら「アンナ・カレーニナ」のように濃厚な長編で、メインストーリーを描くだけでなく、ロトゼタシアの様々な日常も紹介してくれる。

ファンタジーの中にもリアリティ。

ロトゼタシアが幻想世界である以上、「DQXI」のストーリーも必然的にファンタジーになる。だが、ファンタジーの中にもリアリティがなければならない。「指輪物語」のフロドがある日突然に空を飛べるようになったり、「ウィッチャー」のゲラルドが何の説明もなく死者を復活させられるようになったりしたら、僕らはどこに感情移入していいかがわからなくなってしまう。いくら幻想世界であっても、世界の法則に則った出来事でなければ説得力がない。「DQXI」で何か不思議なことが起こるとき、「なぜそんなことができるのか」が明白に説明されていないことがやや多すぎた。だが、想像力を超えるお伽噺めいた出来事は大人を童心に返してくれるので、深く考えなければ楽しめるだろう。

「DQXI」の物語とロトゼタシアの真相は本編をクリアした後に初めて見えてくる。僕は普段、濃厚なRPGをクリアすると満足してしまうタイプだが、「DQXI」のストーリーを理解したければどうしてもクリア後の世界を訪れなければならない。なぜストーリーの大事な部分をクリア後にとっておいたのか疑問に思うかもしれないが、プレイすればわかる。これは必ずクリア後の物語でなければならなず、同時に本編の核心に迫る部分である。クリア後のストーリーとして、これほどよくできたものはめったにない。

ドラゴンクエストXI

ストーリーとうまくリンクしたターン制バトル

ここまで大規模の古き良き国産RPGも珍しくなった。何しろ、ターン制バトルを採用しただけで古臭いと言われる時代だ。僕にはその理由がどうしてもわからない。20年前、3Dゲームが大流行した頃は「2D横スクロールなど時代遅れ」というイメージがあったように記憶しているが、ターン制バトルもあくまで一時的に偏見を持たれているジャンルであると信じたい。そして、「DQXI」のようにターン制であることを恥じない大作は偏見を覆す救世主――いうなれば勇者となるであろう。

「DQXI」のようにターン制であることを恥じない大作は偏見を覆す救世主。

戦闘はドラクエの過去作をプレイした人ならすぐに馴染めるだろう。序盤は物理攻撃とやくそうだけでやっていけるが、モンスターが強くなってくると様々な戦略を練ることになる。守備力を上げるのか、モンスターを幻につつむのか、または呪文を跳ね返すのか。モンスターに応じて違う戦略が必要となるが、ボス戦では「かけ」や「よみ」といったより抽象的な要素が勝敗を決める。勘があたってギリギリ生き残ったときはアクションゲームとはまた違った達成感をじわりと味わえるだろう。

じっくりと悩める点もターン制バトルの大きな特徴といえる。アクションRPGであれば瞬殺されるような場面でも、ドラクエなら何度も「どうぐ」や「じゅもん」の画面を開いてなんとか生き残る方法を考える。もちろん、その後はあっけなく殺されてしまうが、その最後のふんばりにも独特な面白さがある。

ドラゴンクエストXI

「DQXI」には「ファイナルファンタジーX」を彷彿とさせるスキルパネルが導入されている。複数のパネルから選んでスキルポイントを振り分けるというシンプルなものだが、学べるスキルが物語とリンクしている点は評価に値する。キャラクターが何かで悩んでいるときは一部のスキルを学べなくなったり、閃くと新しいスキルを覚えられるようになったりするので、戦闘中にもキャラクターの人間味が感じられる。

戦闘中にもキャラクターの人間味が感じられる。

戦闘の途中で発生するゾーン状態は「DQVIII」のテンションと近く、発生時はキャラクターの能力が上がる。複数のキャラクターが同時にゾーン状態になるとれんけい技を繰り出せるようになり、参加できるキャラクターが多ければ多いほど強力な技になる。特定のスキルを習得して初めて覚えるれんけい技もあるので、ここもスキルパネルとうまくリンクしている。れんけい技はときどきプレイヤーをピンチから救ってくれるが、発動するのに必要なキャラクターが都合よく同時にゾーンになるとは限らないので、これに頼り切ってプレイできないようになっている。

ふしぎな鍛冶は武器や防具を作ったり、強化したりできるシステムで、ちょっとしたミニゲームになっている。決して複雑なシステムではないが、装備品に対して思い入れが増え、ロトゼタシア各地に点在する素材を探すモチベーションにもなる。だが、せっかく頑張って作っても、防具の大半はキャラクターの外見に反映されない。剣と盾はすべて反映されるが、服やぼうしもひとつひとつ見た目が変われば戦闘以外の目的でもすべての装備品を集めたくなったはずだ。……いやいや、決して怪しい目的などでは!

ドラゴンクエストXI

フィールドにいるモンスターに近寄ってから◯ボタンを押すと攻撃して一定のダメージを与えてから戦闘に入れる。だが、その後さらに先制攻撃ができるわけではない。攻撃したモンスターの近くに別のモンスターがいれば戦闘に加わり、群れと戦うことになる。本作のシンボルエンカウントで特に斬新に感じられたのは、一部驚かしてくるモンスターがいる点だ。沼地を歩いているときにマドハンドは沼から手を突き出して勇者を襲ってくるし、微動だにしないうごくせきぞうも近くを通り過ぎると奇襲をかけてくる。やはり「DQXI」のモンスターたちは生きており、それは技術的な意味でロトゼタシアの一番の快挙だろう。

天井に頭をぶつけることなく、「どこでもルーラ」

難易度は過去作と比べるとかなりヌルくなっている。僕は必要以上にレベルを上げるようなプレイはしないけれど、クリアまで全滅した回数は数えられるほどしかない。プレイヤーの平均レベルとモンスターの強さのバランスが調整されているというよりは、他の仕様がプレイヤーに親切になっている影響の方が大きい。フィールドやダンジョンにはキャンプ地があり、ここでHPとMPを回復できるだけでなく、教会と同じ役割を担う女神像もある。モンスターたちもそこまでしつこく追ってこないので、負傷した時のほとんどは難なくキャンプ地にたどり着けるだろう。また、家の中でも洞窟やダンジョンの中でも天井に頭をぶつけることがなく、「どこでもルーラ」できるようになった。便利だけど、これでリレミトという呪文はほとんど意味をなさなくなった。

死んでしまったときは最後においのりしたところ、最後に訪れた場所、またはオートーセーブした場所に戻れる。後者を選択すればお金は半分にならないので、一度も痛い目に遭わずにクリアできる人はほとんどだろう。僕はずっとお金をゴールド銀行に預けていたけれど、結果としてそれは手間にしかならなかった。

ドラゴンクエストXI

難易度の低さに関しては賛否両論がありそうだが、バトルの戦略性を変えずに関連仕様を変えることでよりストレフリーな体験になっているだけなので、僕は割りとポジティブに捉えている。手応えが足りないという人は冒険の書を作るときに選択できる縛りプレイ(買い物ができない、戦闘から逃げられない、防具禁止、恥ずかしい呪いがある)に挑戦すれば良いだろう。

すべてのNPCに丁寧に話しかけ、景色を何度も立ち止まってじっくりと堪能する僕はクリアまで約100時間をかけてしまった。ほとんどの人は僕より早いと思うが、ボリュームたっぷりの作品であることに変わりはない。クリアした今でも、ちいさなメダルを探したり、フィールドに隠されたマトをボウガンで撃ったり、サブクエストを攻略したりと、やることはいくらでも残っている。だが、何よりも大事なのはロトゼタシアが何度も再訪したい世界に思える点だ。やりこみ要素をすべてクリアしてやることがなくなっても、僕はたまにイシの大滝を訪れ、村人のつぶやきに癒やされたい衝動に駆られると思う。美しさ、刺激、楽しさ、ユーモア、そして儚さ、ロトゼタシアにはそれが全部あるのだから。