欠点はあるけれども、第4話はこれまでの「ウォーキング・デッド」シーズン8で最も力強いエピソードだ。ずっと続いてきたエゼキエルの豪語と虚勢は、最悪な形として彼に跳ね返った。強力なブローニングM2重機関銃を使う救世主たちによって――幸い、視聴者が知っていて、愛している二人は無事だが――王国の95%の戦士たちが殺された。

これは、今までリックたちの襲撃計画に対する最大の反撃であり、キャラクターとしてのエゼキエルにとってこれまで最大の見せ場である。原作コミックを読んだ人ならば、この惨劇を予見できていたのかもしれないし(とはいえ、TVドラマ版は必ずしも原作に忠実なわけではないが)、コミックを読んでいなくてもエゼキエルと彼のチームに何か不吉な運命が訪れるだろうと感じ取れていた人も少なくないはずだ。エゼキエルによるヘンリー5世の名言の引用や大言壮語、笑顔、そして「誰も死ぬことはない」という自信満々なセリフは、恐ろしい結末の予言に他ならない。それでも、エゼキエルが自分に揺るぎない忠誠を誓った精鋭な戦士の軍団をほぼ全て失うというストーリーテリングは非常に効果的だ――たとえ死んだキャラクターの多くは視聴者に悲嘆を感じさせない無名のエキストラだとしても。

エゼキエルの周りに横たわっている一面の死体は、我々の感情に訴えかける印象的なシーンである。番組の他のシーンと違って、ここでは視聴者が一人ひとりの死者を知らなくてもかまわない。エゼキエルの「王」としての振る舞いが実際に戦士たちの忠誠心を勝ち取ったことは、さらにこの惨劇を悲しいものにしている。彼らは王のために、何のためらいもなく死んでいく。そして王のために、甘んじて「陛下」の前に立って凶弾を自らの身で受ける。これは悲劇が始まる前から、すでに決まっていたことだ。エゼキエルが創った中世的幻影は、現実において誰もが常識として彼を高貴なリーダーとして守るシステムと化したのだ。

 

もっと悲しいのは、この感情的紐帯と暗黙の合意の中に虎のシヴァも含まれていることだ。私もそうだが、多くのファンは有象無象の人間たちよりもシヴァの死に打ちひしがれたに違いない。最初から、「ウォーキング・デッド」の人間は基本的にゴミ同然の存在だし、実際にゴミと一緒に暮らしている清掃人グループすら存在する。たとえ(視聴者が必ずしも知っているとは限らない)名前が与えられている人間でも、ウォーカー予備軍のような扱いを受けることが多い。この物語では、人間よりも遥かに動物に感情移入しやすい。ヤギのタバサを覚えているのだろうか?

この感覚は過去の数シーズンのスタンダードとなっている。「予期せぬ再会」でサプライズ登場したモラレスでさえ、この番組はあっさりと捨ててしまった。再びモラレスに長いストーリーを与えてほしいと願ったわけではないが、少なくとも彼の過去とリックを繋げて、このキャラクターをもっと有意義に使えたはずだ。モラレスが一瞬で消えた後、我々はCGの虎を哀悼している。実は、私は「王への忠誠(原題:Some Guy)」の冒頭でカメラが彼女(シヴァ)を10秒ほどじっくり見せたときから、彼女の悲しき運命はもう決まってしまったのかもしれないと考えていた。“デジタルタイガー”は長いクローズアップの見せ方に適したキャラクターではないので、できるだけ早く、ズームしないように見せるのは、本来原則のはずだ。エピソードの序盤にシヴァを10秒も見せ続けるのは、何か理由があるに違いなかった。

シヴァの死は、戦死した多くの王国の人間に加えて、エゼキエルに捧げられた命の重さを強調している。これは「王への忠誠」の最も傑出している部分である。王は自分のために犠牲となった大勢の人々に動揺し、そしてウォーカーとなった自分の民を倒さなければならないときに、彼が深く愛するペット(兼最終秘密兵器)まで死んでしまった。シヴァはエゼキエルの神秘性に大きく寄与していた。親密な友だけではなく、シヴァはエゼキエルの“アクセサリー”として、彼の王者らしさを見せつける存在であった。決して嬉しいイベントではないが、シヴァの死はエゼキエルを打ちのめし、誇りを傷つけるための最良の方法だ。そしてその死亡シーンの直前に、エゼキエルがシヴァとの関係――エゼキエルは動物園で負傷したシヴァの怪我を治療し、それ以降、両者は長きにわたって固い絆で結ばれていること――を語ったせいで、間もなくやってくるお別れがさらに悲しい出来事になってしまう。シヴァがエゼキエルを、ではなく、エゼキエルはシヴァを守ってその世話を見てきたのだ。

エゼキエルのおごりは彼の悲運を予示していたかもしれないが、彼はこれほどの仕打ちを受ける罪を犯していないはずだ。エゼキエルだって、このポストアポカリプスの世界がどれだけ危ないものかがよく分かっているだろう。彼は奇襲の計画を練ったが、誰もがそれは危険を伴う行動であると知っていた。エゼキエルはただ、これほどの痛手を負う心の準備をしていなかった。この戦争における他の戦線の人たちは、絶大な損失を常に心掛けているが、エゼキエルは今まで“保護”されてきたのだ。

 

このエモーショナルな悲劇が起こる一方、リックとダリルは救世主から銃を奪うためにダイナミックなカーチェイスをしていた。特にインディ・ジョーンズを彷彿とさせる、ジープからトラックの前部席に飛び込むリックのアクションは素晴らしい。この番組では、戦いにおけるリックの強さは一貫していないが(リックは、時には圧倒的な強さを見せ、時には簡単に負かされる)、このアクションシーンは間違いなく愉快だ。もしもリックたちが銃を奪えなかったら、エゼキエルの恥と、友人らを助けるために救世主たちを逃がしたキャロルの選択の重さがさらに強調されていたのかもしれないが、とにかくリックとダリルというクールなアクションコンビは本当に良かった。

しかしここで「王への忠誠」の欠点が露呈する。デイビット・コレッシュ風のメガネをかけ、明らかにウィッグだと分かるマレットの髪型をしている救世主のあの男は、どう考えてもこのエピソードにとってただの足手まといだ。10分間にわたってエゼキエルを苦しめ続けた彼は、“本物”の人間には見えないし、感じられない。そして彼は視聴者が静かに咀嚼すべき諸々の事柄――悲劇と犠牲、エゼキエルが受けたショックと苦しみ――について声高らかに言葉にし、エゼキエルを虐待する。番組の制作者として、このやり方はあまりにも不器用だ。しかもこの変な男はどこからでもなく、突如出現し、重要キャラクターのように振舞っている。彼は一体何なのか?

もちろん、視聴者は今まで、まるで滑稽な装いの寄せ集めのように見えるこの男を目にしたことがない。不必要なメガネとウィッグ、そしてわざとらしい不自然な訛り。これは変装の名人のゲスト出演なのではないかと一瞬思った。そうでなければ、ここまで手の込んだ“コスプレ”をして、自分を自分っぽくなく見せる理由が見当たらない。後日、我々は「オーマイガッ! アレはニコール・キッドマンだったのか!?」と驚愕するかもしれない。この男は、私にジェフリー・ダーマー(実在した米国の連続殺人鬼)をテーマとした新しい映画「My Friend Dahmer」(※訳注:米国で2017年11月3日公開)の中のロス・リンチ(主演)を思い出させた。オープニングとエンディングの両方のクレジットにも男の役者が記載されていないので、この時点では知る由もないが、将来に謎が解き明かされることを願う。

 

そしてこのキャラクターは、変な外見とアクセント以外には、何ももたらさなかった。まるで奇妙な幕間狂言のようで、我々は突然、かつて一度も見たことのない、アニメから出てきたようなおかしい悪者の独壇場を目の当たりにする。20分のストーリーを45分に長引かせる「努力」の一環であるこの部分は、「王への忠誠」のメインテーマからかけ離れている。キャロルのステルスミッションと後の救世主たちとの銃撃戦も、現時点においては必要のない回想シーンと共に、このズルズルした部分に寄与してしまっている。

最後にもうひとつ。エゼキエルは「予期せぬ再会」で行った例の「しかし私は微笑んだ(And Yet I Smile)」の演説を、「王への忠誠」の冒頭、王国の人々が戦いに出発する前にもしているが、第2話での彼の演説はもう二度目のスピーチなのだろうか? つまり、キャロルはエゼキエルの演説を2回も聞いたのだろうか? キャロルを笑顔にさせた例の演説は、実は彼女が1時間前にも聞いたものなのか(ちなみに今の状況ではキャロルの笑顔は大変貴重なものだ)? 第4話に同じような演説シーンを挿入したのは、実に変な選択だ。