シーズン8の第3話「歪んだ正義(原題:Monsters)」は全面戦争が始まってから、最も問題の多いエピソードだ。ジーザスがあいかわらず場違いな“慈悲活動”を続けるだけではなく、先週のモラレスの再登場も台無しになってしまう。そして数年が経っても観客が大して理解しておらず関心も薄い、ある死んでいくキャラクターに割いた尺が長過ぎた。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「歪んだ正義」 レビュー

このエピソードで私が最も興味を感じたキャラクターは、あちこちで観賞に堪えるシーンを見せるアーロンだ。彼が関心を持った物事に関しても、自然と気になっていた。しかし、エリックの致命的負傷と死については、さすがに時間がかかりすぎた。これにはこの番組の独善的な性質が反映されている。膨大なファン層(そして互いに対立するファン層)を持っている主要人物以外のキャラクターに対して観客が関心を持っていると仮定するのは、実に甘い。「ウォーキング・デッド」は最も多くのキャラクターを誇るTVドラマかもしれないが、シーズン4以降に登場したキャラクターに対して、視聴者に興味を持たせる努力はしてこなかった。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「歪んだ正義」 レビュー

「歪んだ正義」を観る限り、番組の制作陣はエリックおよびその死が重大なイベントであるという印象を視聴者に与えたいようだ。これはシーズン・プレミア「全面戦争」の最後にゲイブリエルに迫る危機を描いたシーンと同じく、「大きなお世話」である。最初の2つのエピソードと同様に、第3話も多くのアクションシーンを見せながらも戦争の厳しさを十分に描けていない。エグゼクティブプロデューサー兼監督のグレッグ・ニコテロはあいかわらず暴力シーンを“芸術的”にシャッフルしているが、結果として視聴者をキャラクターたちの大胆不敵な勇気やドラマチックな効果から遠ざけてしまった。

「ウォーキング・デッド」シーズン8「歪んだ正義」 レビュー

 

シーズン8――少なくとも全面戦争に焦点を置くシーズン前半――の基本コンセプトは、複数のエピソードを繋げて1本の長い映画にすることだ。一方、個別のエピソードは優れているとは言い難い。テーマ的に各エピソードの違いはほとんどなく、一つひとつのエピソードが少しだけ楽しめる「全体の中の一部」となっている。これは近年、Netflixの新たなビジネスモデルとそれに沿った構造のドラマのせいで主流になりつつあるフォーマットでもある。シーズン8ではそれぞれのエピソードの出来栄えは二の次になってしまい、とにかく大規模で戦線がいくつも分かれている戦争を毎週追っかけるよう視聴者を引きつけることに全力を注いでいる。この番組においては新しい発想であるが、どのプロットも着地していないので、上手くいっているとは言えないだろう。

とはいえ、リックとダリルが一緒に戦うシーンは結構クールだ。二人が知り合ってから長い歳月が過ぎたが、彼らが一緒に行動することは驚くほど少ないので、より一層新鮮に感じる。実にシーズン6第10話「ジーザスと名乗る男(原題:The Next World)」を最後に、我々が同じような場面を目にしたことがなかった。ジーザスが初登場を果たしたそのエピソードはユーモアと娯楽性にあふれたドタバタ劇であり、現在の全面戦争とは趣が異なる。「歪んだ正義」では、モラレスの支援に来た救世主たちと戦う二人の戦士は遥かに厳酷で切迫した状況に置かれている。ダリルのモラレスに対する情けのなさも素晴らしい。ダリルが全く躊躇なくモラレスの頭を矢で貫いたシーンも、リックが命は助けると約束した救世主をやっつけるシーンも、観ていて気持ち良かった。

しかし……モラレスに関して本当にそれだけなのか? 彼は小さな「イースターエッグ」として出てきただけなのか? モラレスはサプライズ登場を果たして、自分の悲劇的運命を語って、「お前はモンスターだ」と言ってリックと対立して、そして名も無きウォーカーと同じように一瞬で片付けられてしまった。まさに“完全なる浪費”だ。モラレスが再び主要キャラクターに復帰したりリックのチームに参加したりする必要はないが、このキャラクターをもっと有効に活用する方法はいくらでもあるはずだ。キャラクター描写のためだけではなく、純粋にストーリー展開を考えても、モラレスはもっと活躍するべきだった。個別のエピソードに固有のストーリーを持たせないというシーズン8の構造にも関係があるかもしれないが、驚きをもたらした先週の絶妙なエンディングを一瞬にして無価値のイベントにしてしまったのは間違いない。

全ての敵を迷いなく冷酷に殺しまくるダリルの戦い方は、実に戦士の鑑と言って良い。リックは少し戸惑っているようだが、「こういうやり方には感心しない。俺は彼と約束したんだ」などと文句を言わなかったのはまた素晴らしい。リックは敵を許すリスクも、今がこのような会話をするタイミングではないこともよく分かっているようだ。

しかし、リック連盟の誰もが同じ考え方を持っているわけではない。ジーザスはあいかわらず敵に惜しみない慈悲をかけている。“気高い王”であるエゼキエルを含めて、彼以外の人たちは皆、たくさんの救世主を無情に殺している。一方、ジーザスは10人以上の救世主の捕虜をヒルトップまで連れて行く。ジーザスよ、彼らは善人ではないぞ。先週、嘘泣きと「漏らしパンツ」(ニーガンはこれを自慢に思うかもしれない)であなたを騙して殺そうとする救世主のように、彼らは卑怯者なんだぞ? ジーザスはこう説明している。「私たちは、この人たちとこれからも一緒に生きていかなければならない」と。え、どうして? これからも救世主たちと協力するために彼らを生かしているのか?

救世主が敵を生かす理由は、彼らを下僕にして物資や銃、食べ物を貢がせるためだ。明らかに、リックは「新ニーガン」になろうとは思っていない。だったら、敵を生かして協力を求めるポイントはどこにあるのか? 彼らは強制によってしか働かない。確かにリックはスピーチで降伏する人は殺さないと言ったが、それ以降の全面戦争は全て汚く狡猾な敵との仁義無き戦いとなっている。リックやマギー、そして他の人たちもあのようなひどいヤツらと一緒に生きて将来を切り開きたいとは思っていないはずだ。これまで、我々は救世主たちが野蛮な暴力によって他者を征服する残酷な人たちであることを知っている。ジーザスの行為は実に観客をイライラさせる。

そしてジーザスとモーガンの衝突は、シーズン6におけるモーガンとキャロルの戦闘を奇妙な形で彷彿とさせる。当時のモーガンは敵の命を助けようとしていて、キャロルは敵を殺そうとしていた。今、モーガンはかつての“狂気”を完全に取り戻した。もしもジーザスの慈悲深さがあの気味の悪いヤツらに反撃の機会を与えてしまうとしたら、「ウォーキング・デッド」史上最悪の“書き損ない”になるだろう。愚かな無防備さによって発生する、完全に予防可能な大惨事なのだから。

 

シーズン8における「慈悲」(※訳注:第1話の原題は慈悲を意味する「Mercy」である)のコンセプトは完全に“押し売り”だ。ウォーカーが蔓延るポストアプカリプスでいつ死んでもおかしくない世界においても、視聴者を慈悲深さという美徳を信じ込ませようとしている。それぞれのキャラクターを愛して対立するファン層の中に、特定の味方キャラクターに死んでほしい人たちもいるほど、「ウォーキング・デッド」は偽善が効かないTVドラマなのである。ましてや敵の救世主(特にモーガンにちょっかいを出し続けるあの嫌なヤツ)が生き残るに値する人間であると視聴者に思わせることはできないだろう。卑怯者のグレゴリーについても同じだ。毎週、ヒーローたちに「敵を殺せば私たちも救世主のようになる」とか、「ヤツは殺すに足りない」と発言させるのは簡単だが、7つのシーズンも観てきた人にとって、こういった使い古した決まり文句には何の重みがない。シーズン8の前半が取るに足りない慈悲が続くせいで、我らがヒーローたちが裏切られて“壮大”な終盤になってしまわないか、心配でならない。