サスペンスとホラーの違いとはなんだろう。古典的な定義を述べるならば、人間の狂気や犯罪の枠に収まるものがサスペンスであり、その先に霊的・超自然的存在を感じさせることができたらホラーといえる。エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」、ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」、スティーブン・キングの「シャイニング」、これらはサスペンスとホラーの違いを考える上で最良な小説たちだ。これらの作品では幽霊の存在は人間の狂気が生み出した妄想と解釈できなくもない。だが理屈ではそうであっても、読後感は「狂気を超えた先に幽霊は確かにいるのだ。それも邪悪なる意志をもった存在が」というゾッとする恐怖に包まれる。ところがスタンリー・キューブリックが監督した映画版「シャイニング」では「狂気を超えた先の幽霊」を描くのではなく、逆パターンの「幽霊を超えた先の狂気」を描いたため公開当時は賛否が分かれた。これはこれで傑作だったとは思うが、ゾッとするのは前半だけで、後半からハラハラするサイコ・サスペンスになったため、この主客転倒に原作者のスティーブン・キングが激怒したのは有名な話である。

「東京ダーク」はホラーか/サスペンスか、という二律背反を帯びた厄介なゲームなのだ

さてなぜこんな話をしたかというと、今回レビューをする「東京ダーク」も狂気なのか/霊的なのかという問題を扱っているゲームだからだ。だが、これ自体は「東京ダーク」のストーリー上のフックになっているわけではないので、先に私の意見を表明してしまおう。これはネタバレというより私の解釈であり、人によってはまったく逆の主張をするかもしれない。――「東京ダーク」はホラーである、しかも純然たる正統なホラーである。この霊的・超自然的存在の物語である点において私は「東京ダーク」を強く支持したい。だが逆に本作をサイコ・サスペンス、つまり狂気の物語であるという立場をとってしまうとあまり支持することはできない。「東京ダーク」はホラーか/サスペンスか、という二律背反を帯びた厄介なゲームなのだ。

ゲームの冒頭。狂気に彩られた世界だ。

「東京ダーク」はどちらの「シャイニング」なのか

プレイヤーは呪いに怯えるのが主眼ではなく、あくまで神経症の主人公を通して事件の答えを見つけていくのが本編の物語である

「東京ダーク」の物語は主人公である刑事の伊藤絢美が、行方不明になった同僚の田中刑事を捜索するところからはじまる。オープニングでは事情が飲み込めないが、しばらく進むと、この主人公はどうやら神経が衰弱しているらしい。その理由は過去に鎌倉で出会った老婆から託された能面の呪いによって操られ、決定的な過ちをおかしてしまったからだ。ここで大事な点は、神経症の原因はとある過ちをおかしてしまったからであり、能面の呪いはそのきっかけに過ぎないということ。プレイヤーは呪いに怯えるのが主眼ではなく、あくまで神経症の主人公を通して事件の答えを見つけていくのが本編の物語である。つまりこれは映画版の「シャイニング」と同じ方法論であり、描かれているのは「幽霊を超えた先の狂気」のサイコ・サスペンスの物語なのである。ではなぜホラーとしての評価とサスペンスとしての評価が分かれるのか、これについては最後に説明しよう。

ポイント&クリックスタイルでダークな東京を探索できるのも魅力のひとつ

ポイント&クリックとビジュアルノベルの融合を謳われたインディーゲーム

本作はスクウェア・エニックスがパブリッシャーをしているが、それはプロモーションの支援のみで、製作資金はキックスターターで集められたもの。本作はまぎれもなく純然たるインディーゲームである。とはいえ時折挿入されるボイスアクトと短いアニメのカットシーンは効果的で、一定のリッチさを感じさせる

ゲームスタイルの特徴として、三人称のポイント&クリックアドベンチャーとビジュアルノベルの融合が謳われている点にある。ポイント&クリックアドベンチャーはクリックできる箇所のわかりやすさ、数の多さ、反応の多彩さが重要だ。本作はクリックできる数と反応を犠牲にするかわりに、クリックできる箇所をわかりやすくし、ノベルの描写に力点が置かれている。NPCと微妙にすれ違う会話はコミカルさと薄気味悪さを感じさせてくれる。ポイント&クリックアドベンチャーの多くは口語体の対話形式が多いが、本作はノベルゲームでもあるので台詞の他に地の文が存在し、それは刑事ものに相応しい一人称の独白で導入されている。

SPINシステムは果たして機能しているのか

本作にはSPINと名付けられた特徴的なシステムがある。SPINはSANITY(正気)、PROFESSIONALISM(職業倫理)、INVESTIGATION(探索)、NEUROSIS(ノイローゼ)の頭文字を組み合わせたもので、これらがパラメーター化されており、展開やプレイヤーが選ぶ選択肢によって数値が上下する。例えば主人公は神経症なので、医者から精神安定剤を処方されているが、これを服用をするかどうかはプレイヤーが決めることができる。精神安定剤を飲めば正気値は回復するが、薬の影響で注意散漫となり探索値が減る。死体を見ると正気値が減るが、猫と遊んだりするなど回復手段も存在する。

常軌を逸した行為を選ぶのは最終的にプレイヤーだが、その敷居を下げる心理的な方便としてSPINは上手く機能している

SPINシステムの良い点は、プレイヤーのロールプレイの手助けをする導線として有効なところだ。本作の特徴のひとつだが、物語の様々な局面で穏健的な手段と暴力的な手段の振れ幅がある。これは職業倫理値に関わっており、プロの刑事に徹したければ穏健的な手段を選べばいいわけだ。一方で暴力的な手段は職業倫理値を下げる行為であり、キャラクターの描写として突飛なものになりそうだが、狂気に侵された刑事のロールプレイと捉えることがそれほど説得力が欠ける行為ではない。常軌を逸した行為を選ぶのは最終的にプレイヤーだが、その敷居を下げる心理的な方便としてSPINは上手く機能している。

バーでは情報を得るため飲酒をしてしまうと職業倫理値を下がってしまうが、拒否することもできる。

一方でSPIN値によってNPCの反応や、物語の選択肢が変わるという喧伝されている要素だが、これが正直なところほとんど実感が感じられなかった。何度か周回プレイしてみても探索値が低くても高いときと同じように探索できたし、ノイローゼ値を冒頭から100の状態にしてもフィードバックが感じられない。差異をつぶさに確認しないとわからないほどの変化だ。確かに一部のエンディングにSPINは密接に結びついているが、そうではないエンディングも多くある。そもそも数値的にはノイローゼにならないようにプレイしても、明らかに主人公は物語的にノイローゼになっている。SPINの数値に相応しい物語に誘導できていないのだ。

本質的な問題はアドベンチャーゲームゆえに物語が面白いかどうかだが

本作はミステリー・アドベンチャーとも謳われているが、いわゆる推理の要素はほとんど皆無なので、刑事を主人公としたあくまで雰囲気のものだ。物語的にも場末のホステス、地下アイドル、ヤクザ、猫カフェ、古代の神話、カルトと個々エピソードの有機的な繋がりは薄い。そしてゲームの物語はサイコ・サスペンスとしても、ホラーとしても煮えきらないまま1周目のエンディングを迎えた。本作はマルチ・エンディングだが私が迎えたエンディングは満足のいくものではなかった。

日本神話が長々と説明される場面。狂気の物語だったはずが、このあたりから物語の方向性が不明瞭になる。

例えば「東京ダーク」が影響を標榜している「ひぐらしのなく頃に」にもホラー(タタリ)とサスペンス(殺人)の対立軸が描かれている。「ひぐらしのなく頃に」が秀逸な点は必ず最初はタタリの印象を与えているところだ。「東京ダーク」は、この対立軸を肝心なところで掴み損なっている気がしてならない。ホラーとサスペンスの両方を描こうとしているので、どっちつかずになり結果的に中途半端な結末になっている。

だが2周目以降、いくつかのエンディングを見てみると、私は満足のいくエンディグを2つ見つけた。それはサスペンスに振り切ったエンディグと2周目以降のみ見ることができるホラーに振り切ったトゥル-・エンドだ。「東京ダーク」がサスペンス/ホラーの立場によって評価を分かつのはここなのである。サスペンス・エンドとは実はバッド・エンディングのことなのだが、狂気の物語としての結末がそれほど詳細に描写されていないのが残念だ。

ノイローゼ状態の主人公は、ある意味で魅了的でもある。だがそれに相応しいエンディングが見たかった。

一方でホラー・エンドは「東京ダーク」の全体の印象を変えるほどの秀逸なエンディングで、様々なことがストンと腑に落ちた。ホラー的な解釈をすれば「東京ダーク」で、邪悪な意志をもった存在とは結局のところ何なのか。例えば最初に挙げた「シャイニング」や「アッシャー家の崩壊」では「屋敷」そのものが邪悪な意志をもっていたという結末だった。この構造さえ理解すれば、「東京ダーク」の個々エピソードの有機的は繋がりは薄いといったことすら、実は手法だったのだと納得できる。例えば「東京ダーク」のスケールが小さいという批判する人もいるかもしれない。しかし個別の物語がいつのまにか全体へと伝播していくのはホラー的な伝統なのだ(例えば「吸血鬼ドラキュラ」を思い出して欲しい。個別の物語だったはずが、ロンドン全土まで波及する)。私が正統的なホラーとして「東京ダーク」を評価したいといったことは、まさに狂気と幽霊の関係性がひっくり返り、それに相応しい展開を見せてくれたことにある。

鎌倉も登場するが、やはりこれは東京の物語だ。

結局のところ「東京ダーク」はマルチ・エンディングが足枷

結局のところ「東京ダーク」はマルチ・エンディングが足枷となっているといえるだろう。1周目はサスペンス、2周目はホラーとしての相応しい結末を個別に迎えれば、さらに印象がよくなっていたはずだ。確かにサスペンス側としての物語の結末はあまりいいものではなかったが、ノイローゼ状態の主人公自体は新鮮で魅力的だ。ホラーとしては結末は良かったが、狂気の物語が不十分という点で「東京ダーク」は惜しい作品になってしまっている。